1999年3月22日(月)その1 アムステルダムからヘーレンフェーンのデ・ハスケ本社へ
7時起床。ヤン・ルイケン・ホテルをチェックアウトしてタクシーでアムステルダム中央駅へ。そこからヤンと待ち合わせをしているヒルフェルスム駅まで電車に乗る。ホームを間違えるとえらいことになるのでちょっと緊張。20分でヒルフェルスムに到着。ヒルフェルスムは放送局がたくさんある街。
ヤンは上の息子バートと一緒にやってきた。11時05分の待ち合わせだったけれど、25分ほど遅刻だ(もう慣れた)。「土日は何をしていたのか?」と聞くと「この車でドイツに行って仕事をしていた」と。忙しい人だ。
バートはすごく背が高くて5つのバンドでバス・トロンボーンを吹いているそうな。「そりゃすごい。忙しいね」と言ったら「父と同じ。父はもっと忙しい」と。血は争えない。彼もとても機械好きでヤンのとは別に自分用の Macintosh を持っていてインターネットを楽しんでいるし、私が持っている最新型のデジカメにも興味津々。下左の写真はバートに撮ってもらったもの。
景色はずっとフラット。オランダはだだっ広い平原である。雨が降っていたが、羊の放牧など、のどかな風景を楽しむ。海沿いに風車を発見(ちょっと写真ではわかりづらい)。越前海岸あたりにも同じようなのがあったっけ。風力発電だ。
デ・ハスケがあるヘーレンフェーンには約1時間で到着。デ・ハスケは田園地帯にあった。もともと農地か荒野だったのだろう。いろいろな会社のビルが建設中で空き地もたくさんある。
デ・ハスケのビルは2階建て。外観はとてもシンプルだが(デ・ハスケの社屋外観はデ・ハスケのHPを参照願いたい)内部はとてもモダンで趣味が良く清潔だ。ちなみに1階の休憩室をのぞいてすべて禁煙。来年には今の社屋と同じくらいの大きさの社屋を隣の空き地に増築予定とのこと。繁盛しているのだ。
エントランスで撮った写真は左から、'98にこの地域でのベスト企業の賞をとった際の盾、このビルの設計者によるオブジェ、そして何だかわからないけどティンパニを使ったオブジェ。(^-^;)
ヤン・デ・ハーン社長とデ・ハスケのスタッフたちに熱烈歓迎される。ヤン・デ・ハーンの奥さんも娘さんもここで働いている。2人とも笑顔を絶やさないすごく明るい人だ。
社長室に難波の道具屋筋で買ってきた招き猫を設置。青い目で、招く手は欧米風に手の甲がこちらを向いている物。「これはデ・ハスケへのとても特別なプレゼント。マネキは Welcome、ネコは Cat の意味」と説明すると「Welcome cat か」そしてドル小判を見て「オーッ、ドルが入ってくるってことか。そりゃいい!」ヤン・デ・ハーンは大喜び、みんな爆笑。(^○^) 他にヤン・デ・ハーンには着物の染色で作られたクラリネット柄のネクタイをプレゼント。「オォ、楽器だ。これはいいぞ」。そしてホテルとチケットの予約など何かとお世話になった社長秘書には着物の素材で作られたバレットをプレゼント。いずれも神戸の丸太やで購入したもの。しかし彼女はショートカットだった。失敗。でもとても喜んでくれた。
男ばかりで食事に出かける。ヤン・デ・ハーンのアウディに乗って近くの(といってもかなり走ったな)ホテルのフランス料理店へ。
写真は左からバート、ヤン、ハルムート・ヴァン・デル・ヴェーン(インターナショナルAG)、ヤン・デ・ハーン、そして私。
私はマスタード・スープとポーク・フィレをいただく。メチャクチャ美味い。φ(^_^) ビールはハイネケン。日本でもお馴染みのビールだけれど、こっちで飲むともっと美味しく感じる。気のせいかな。
デ・ハスケに戻ってビル内を案内してもらう。まず1階から。
エディターのチーフで作・編曲家でもあるウィム・スタルマンは病気で休み。彼とは日頃から頻繁にメールやファックスのやりとりをしているのでぜひ会いたかったのだが...残念。で、他のエディター(写真の人物)がさっそく「質問がある」ときた。「"Night on the Bare Mountain" を "Night on the Bald Mountain" に変えても良いか?」と。をいをい、日本人に何を聞くのだ。(^-^;) すかさずヤン・デ・ハーンが割り込んできて「いや "Bare" のほうが良いぞ。何で変えなきゃいかんのだ?」と。あとは勝手にやってくれ、だ。(^-^;) 「あなた方にまかせる」。
ちなみにエディターは Macintosh と Windows の両方の Finale を使っている。他のセクションでも Macintosh と Windows の両方が半々くらいの割で使われている。オイシイところを使い分けているようだ。
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インターネットのセクション。ここからデ・ハスケのホームページは発信されているのだ。モニタにはデ・ハスケのホームページが表示されていた。 |
デ・ハスケはバンド・メソードや各楽器のエチュードなどにも力を入れ始めている。このセクションでは新しいメソードを編集中だった。ただし言葉はオランダ語。 |
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印刷工場。とかく散らかりがちなものだけれど、デ・ハスケの印刷工場はとても清潔で整然としている。いかにも整理整頓が好きなオランダ人らしい。もちろんインクの臭いなんてしない。 |
そして倉庫。タイトル別に箱に収められて出荷を待つ。見上げると2階にもギッシリ。もの凄い量だ。ヤン・デ・ハーンは「これらすべてがミュージックだ!」と誇らしげに大声を上げた。 |
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外に目をやって気付いた。通路は5線である。「歩きながら作曲できるようにしてあるんだ。(笑)」とヤン・デ・ハーン氏。 |
そして2階へ。2階にはレコーディング・スタジオがあり、その隣のモニター・ルームでは今回のレコーディングでエンジニアをつとめたヨスが「展覧会の絵」と「はげ山の一夜」を編集中だった。レメンス音楽院で録音した DAT のデータをハードディスクに取り込んでの編集。編集ソフトには SADIE3(かなり古典的な波形編集ソフトだ)を使用、マシンは Windows。
特に機械好きのバートは興味津々。われわれは次の部屋に進んだが、彼はモニター・ルームにとどまる。
2階にはデ・ハスケのすべてのCDとスコアの試聴と閲覧ができるライブラリーがあって何人かの熱心なバンド指導者が新しい情報を仕入れに来ていた。ここの担当はヤン・デ・ハーンのお嬢さん。
そして再び社長室へ。私が持っていった酒井
格の新作「大仏と鹿」と「若草山のファンファーレ」の初演のテープをヤンとヤン・デ・ハーンと私の3人で聞く。2人とも気に入った様子。そしてやはり私が持っていった高
昌帥(こう・ちゃんす)の「ポルカ・マーチ」をスコアを見ながら聞く。2人とも興味津々。ヤンは「意外性がある曲だ」と、ヤン・デ・ハーンは「オーケストレーションが上手だ」と。<99年7月追記:「ポルカ・マーチ」は「Carnival
Day」とタイトルを変更して出版することが決定しました。\(^o^)/
さらにしばらくすると秘書が今回の「展覧会の絵」と「はげ山の一夜」のレコーディングの暫定版のCDを持ってきた。土日は休業だから今日一日で編集を終えたことになる。ヨスの仕事の速さに驚くとともに深く感謝。m(__)m さっそく3人で聞く。
ヤン・デ・ハーンは「今回のあなたの仕事にはとても満足している」と。「私も満足しています。そしてみなさんに感謝しています」と答える。ヤンはコントラバス・クラリネットなどの重低音が聞こえてくるたびに「オゥ」と声をあげて無邪気に喜ぶ。やっぱりヤンは低音大好き人間だ。(^-^;)
そしてヤン・デ・ハーンとマジメにビジネスの話。印税のこと、そして翻訳担当の女性をまじえて日本語版カタログのことなど。ヤン・デ・ハーンはとても頭がキレる人。そしてとても貫禄があってカッコいい。あらためて音楽家としてもビジネスマンとしても一流の人だと感じた。
さらにレコーディングができあがったばかりの「ラプソディー・イン・ブルー」の暫定版CDを聞かせてもらう。演奏は J.W.F.ミリタリー・バンド。ヤン・デ・ハーンは「楽器(ピアノ)があまり良くなかったのが残念」と顔をしかめるが、なかなか楽しめる演奏である。部分的におやっ?という部分がないではないが満足できる。「満足です」と言うと喜んでくれた。
ちなみにこのCDには保科 洋氏の "Memoire" と木村吉宏氏編曲のドビュッシーの「小組曲」とオランダの作曲家(名前失念)による "Nightflight to Paris" という作品が収録されていてそれも聞く。4作中3作が日本人が書いた楽譜だ。発売は夏。<99年7月追記:この CD は発売されました。こちらをご覧ください。
午後6時にデ・ハスケ社を出る。終業時間は5時なのでわれわれの他にはもう誰もいない。ヤン・デ・ハーンと「12月にシカゴで会えるといいなぁ」と固く握手をして別れる。
3月15日(月) ブリュッセルへ
3月16日(火) ルーヴェン レコーディング初日
3月17日(水) ルーヴェン レコーディング2日目
3月18日(木) ルーヴェン レコーディング3日目
3月19日(金)その1 ルーヴェンからコンティッヒのヴァン・デル・ローストの家、アントワープへ
3月19日(金)その2 ブリュッセルでギデ吹奏楽団を鑑賞、アントワープへ
3月20日(土) アントワープからアムステルダムへ
3月21日(日) アムステルダム
3月22日(月)その1 アムステルダムからヘーレンフェーンのデ・ハスケ本社へ
3月22日(月)その2 ヴァン・デル・ローストの家へ
3月23日(火) ブリュッセルから日本へ